夏の甲子園大会の歴史が分かる「高校野球 100回記念展―パネルやゆかりの品で振り返る「熱闘」の歴史―」

 「高校野球 100回記念展―パネルやゆかりの品で振り返る「熱闘」の歴史―」が8月2日(木)から13日(月)まで、新宿高島屋11回 特設開場(東京都新宿区)で開催されています。

大正4年(1915年)、大阪・豊中グラウンドで産声をあげた全国中等学校優勝野球大会は、第10回からは舞台を半身甲子園球場に移しました。その後、戦争や学制改革を経て、昭和23年(1948年)に全国高等学校野球選手権大会と名称が変わり、2018年夏に第100回記念大会を迎えます。
本展は、夏の国民的行事となった高校野球の第1回大会から昨年の99回大会までを振り返り、高校野球をとりまく世相と甲子園を熱くした数々の名勝負を朝日新聞の写真や紙面によりたどるものです。甲子園歴史館や野球殿堂博物館が所蔵する貴重な資料や、活躍した名選手たちのゆかりの品、強豪校の優勝旗レプリカなど多彩な資料を展示します。
(案内より)

 展示は、
1:草創期 1915~23年 第1回~9回大会 ※18年の第4回は中止
2:甲子園時代始まる 1924~41年 第10回~26回大会 ※41年の27回は中止
3:大会復興 1946~57年 第28回~39回大会
4:初めての47代表 1958~73年 第40回~55回大会
5:金属バット時代 1974~88年 第56回~70回大会
6:平成 1989~2017年 第71回~99回大会
で構成されていました。

 第1回大会から99回大会まで、全大会の対戦表とともに、世相と名勝負を写真や紙面で展示されています。

 開場入り口で第1回大会で出場した「神戸二中」「京都二中」「三重四中」「早稲田実」「秋田中」「久留米商」「高松中」「鳥取中」「広島中」「和歌山中」の「第1回大会復刻ユニホーム」が展示されています。

1:草創期 1915~23年 第1回~9回大会 ※18年の第4回は中止

 第1回の大会は「全国中等学校優勝野球大会」の名称で、1915年(大正4)8月18日に大阪の豊中グラウンドで開催された。朝日新聞社の呼びかけで始まり、参加校は10地区10代表で、初代の優勝校は京都二中だった。1917年(大正6)の第3回大会から舞台は兵庫・鳴尾球場に移る。1918年(大正7)の第4回大会は14地区の代表による抽選まで行われていたものの、米騒動が起こり、世情が騒然とするなか中止になった。1923年(大正12)の第9回には台湾代表も参加し、参加校は19校になった。
(パネルより)

 第1回大会の始球式の様子の写真や使用球などが展示されています。

 初代優勝旗はなんと、高島屋が関わっているそうです。

初代優勝旗と高島屋

 第1回全国中等学校優勝野球大会は1915(大正4)年8月に豊中グラウンドで開催されました。主催者である朝日新聞社社長の要望のもと、高島屋がこの旗を調整することになりました。当時の『朝日新聞』には『天下の野球児が渇仰の標的となれるこの大会優勝旗は地質緋色、もゆるがとき皇国織にして長さ5尺幅3尺5寸・・・・・・』とあります。生地は、“綾錦織”という最高品質の皇国織とも言われ、昔から天皇旗以外には使われなかったもので、当時の製作費が1500円。これは地方から集まる全選手の旅費のおよそ倍という莫大な費用だったと言います。まさに多くの球児のあこがれの的にふさわしい旗でした。旗の図案を描き起こした当時の高島屋呉服図案課長・森於兎次郎は、「まだほんの駆け出しばかりの私にとって非常にうれしかったので、私は一晩かかって楽しんで書き上げた」と社史に残しています。
 なお、大会名称が全国高等学校野球選手権大会と変更された1958(昭和33)年の40回大会より、綾錦織の初代優勝旗から錦織の二代目優勝旗に新調されましたが、これも高島屋が調整しています。
(パネルより)

2:甲子園時代始まる 1924~41年 第10回~26回大会 ※41年の27回は中止

 1924年(大正13)、第10回を迎えた大会は、この春着工した約5万人を収容する新球場「甲子園」に舞台を移す。1931年(昭和6)に17回大会で初出場・初優勝を飾った中京商は、続く18回、19回も優勝し、3連覇を遂げた。3連覇はいまだに超えるもののない記録である。戦時色が強まる中、和歌山・海草中は1939年(昭和14)の25回大会ではエース嶋が準決勝、決勝とノーヒットノーランを達成した。翌26回も投手真田を擁して連覇。27回は戦局が悪化し、大会は中止となった。この時代、海草中の嶋や20回大会出場の京都商の沢村ら、名選手たちが戦場に命をおとした。
(パネルより)

 1924年8月1日に完工した甲子園球場(当初は甲子園大運動場と称していた)の写真や阪神梅田駅で決勝戦観戦に向かう観客の様子の写真、第19回の中京商-明石中戦の延長25回のスコアボードの写真広陵中時代の木製バット、映像などが楽しめます。

3:大会復興 1946~57年 第28回~39回大会

 5年間の中断の後、1946年(昭和21)に西宮球場で
戦後初となる28回大会が行われた。この年、全国中等学校野球連盟が発足し、大会は朝日新聞社との共催となった。29回大会には参加校が千校を超え、7年ぶりに大会が甲子園球場に戻った。1948年(昭和23)の30回大会から、学制改革のため、「全国高等学校野球選手権大会」の名称となった。同年、「栄冠は君に輝く」が大会歌に制定された。31回大会にはプラカードガールが登場、1953年(昭和28)からはテレビ中継が始まり、39回大会には勝利チームの校旗掲揚と校歌斉唱が行われるようになった。
(パネルより)

 戦後初めての開会式が開催された阪急西宮球場(第28回 1946年)の写真や第28回(1946年)の準優勝盾 京都二中大会ポスターなどが展示されています。

4:初めての47代表 1958~73年 第40回~55回大会

 1958年(昭和33)の40回記念大会では、各都道府県の代表に沖縄代表を加えた47校が出場し、沖縄代表首里が初めて甲子園の土を踏んだ。この大会から延長戦は18回で引き分け再試合となり、板東が活躍した準々決勝の徳島商-魚津の試合が初めての適用になった。1969年(昭和44)の51回大会では、青森・三沢の太田と愛媛・松山商の井上が初の決勝引き分け再試合の熱戦を繰り広げ、高校野球ファンを釘付けにした。55回大会には“怪物”と呼ばれた栃木・作新学院エースの江川が登場した。
(パネルより)

 第40回の記念の人文字の写真や「作新学院-銚子商」戦の新聞記事や映像などが楽しめます。

5:金属バット時代 1974~88年 第56回~70回大会

 1974年(昭和49)の56回大会から、金属バットの使用が解禁された。1978年(昭和53)の60回記念大会からは49代表となった。1979年(昭和54)の61回大会は、3回戦の箕島-星稜戦を箕島が延長18回の末のサヨナラ勝ちで勝ち抜き、春夏連覇を飾った。62回大会から3年連続出場し、「大ちゃんブーム」を巻き起こした早稲田実の荒木、やまびこ打線と呼ばれた驚異の打撃力で64回に優勝した池田、KKコンビを擁し、65回から3年連続決勝進出したPL学園が時代を席巻した。高校野球は入場者数最多(当時)の人気を誇った。
(パネルより)

 銚子商の悲願の初優勝の新聞記事第56回から導入された、米ボーストン社より輸入した導入当初の金属バット桜美林が優勝した第58回の優勝旗や盾ユニフォーム第61回の箕島-星稜の決勝戦の新聞記事や写真、ユニフォーム。第67回のPL学園-宇部商の決勝の映像、PL学園が優勝した第69回の優勝旗などが展示されています。

6:平成 1989~2017年 第71回~99回大会

 時代は平成に入り、1990年(平成2)の72回大会には参加校が4千校を超えた。73回、74回大会には星稜の松井が登場。80回大会では、横浜のエース松坂が準々決勝のPL学園戦を延長17回の末勝ち抜き、決勝ではノーヒットノーランを達成するなど、鮮やかな活躍をみせた。2004年(平成16)の86回大会には駒大苫小牧が優勝し、優勝旗が初めて北海道へ渡った。駒大苫小牧が3連覇を懸けた88回大会では、早稲田実・斎藤と駒大苫小牧・田中が投げ合い、決勝再試合の結果、早稲田実が初優勝した。92回大会では興南が初めて沖縄に優勝旗を持ち帰った。
(パネルより)

 帝京が優勝した第71回の優勝旗や新聞記事、第74回の2回戦「星稜-明徳義塾」の松井秀喜選手の打席の写真やユニフォーム、映像。第80回の横浜の松坂大輔選手の写真や準々決勝「横浜-PL学園」の映像、第88回の「早稲田実-駒大苫小牧」の決勝の写真や映像、日大三が優勝した第83回の優勝旗や日大三のユニフォームや花巻東の大谷選手大阪桐蔭の写真なども。
 その他、第1回から第99回までのトーナメント表もあり、各回の組み合わせが分かります。
 他にも、開会式・選手宣誓・始球式の変遷の展示もありました。

 記念写真が取れるエリアもありました。

 最後に、応援曲についてや都道府県別の優勝回数と優勝校夏の甲子園の主な球速記録大会記録がパネルで紹介されています。

 展示は結構ボリュームがあり、19時30分(20時閉場)まで、無料で楽しめます。最終日の13日(月)は17時30分まで(18時閉場)だそうです。

 第100回 全国高等学校野球選手権大会の記念映画「ああ 栄冠は君に輝く」のチラシもありました。